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30歳で公務員を辞めてWebデザイナーになった理由。

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公務員をしながら、夜間大学に通った事が始まり。

高校を卒業してすぐ社会人になった私は「いつか大学には行きたい」とずっと思っていた。

親友に半分騙されて大学進学をしなかったけれど、それもまた自分で納得している人生のつもりだった。

ただ、社会人になって組織で働くと、高卒では頂ける給与に差があるんだなと痛感する事が多かった。

だから何としても学校には行こうと思った。自分をバカにした人を見返したかったのもあるし、実際に自分はバカじゃないのを証明したかったからでもある。

まあ、今でも大学に行く意味があるのかと問われれば「あんまりない」と思ってしまうけど。

そんなこんなで、公務員になって1年後の26歳の時に、働きながら地元の国立大の夜間、経営学部に進学した。  

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遅い青春。

私は元々、建築学部や美術学部を希望していたが、なんせ夜間に学部がない。日中は働いてたこともあるし、昼間の講義を受けるわけにもいかない。

当時、夜間学部で開講されていたのは、電気電子工学部か、経営学部しかなかったのである。

「社会人に経営の知識って必要だし、ここでいっか」とそんな理由で入学した。実際、実家も経営しているし、ビジネスは嫌いじゃない。カタカナと英語は苦手だけど、何とかなるだろうと思っていた。

もちろん、大学は楽しかった。10歳近くの下の子たちと仲良くなり、若い彼らのエネルギーと感性と可能性はキラキラ眩しく、少なからず影響を受けた。高校を卒業してすぐ社会人になった私にとっての、遅い青春だったとも思う。

勉強するうちに、私は「単語」を覚えることが苦手なことに気づいた。今もマーケティング用語もファイナンス用語も全く覚えてない。ただ良かったのは、フリーランスになって気づいた事だが、マーケティングもファイナンスも自分には「合っていた」し、ビジネスをする上で重要な部分だと今なら気付ける(ちなみに、ゼミは株で利益を出す講義内容だった)。

しかし、当時はそんな事気付きもせず。机上で繰り広げられる講義は私には全く興味が持てなかった・・。

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すごいIT経営者の講義を聞く機会に溢れていた。

そんな時、特別講義を受ける機会があった。学部でも異端の教授がいたのだが、その教授は「起業家マインド」や「就活に囚われない生き方」を学生に求めていた。

特別講義には、クラウドワークスの吉田 浩一郎社長や、マイクロソフトテクノロジーセンター長の澤 円さん等々、錚々たるメンバーがいた(また、学生が自ら主催したイベントに、ヤフー執行役員の小澤隆生氏が登壇し、お話をする機会もあった)。

正直、最初は単位目当てで出席したが、学校の講義では聞けないような話にどんどん気持ちが高まっていった。

「いつまで昭和の働き方にしがみついているのか」

「これからの時代はトップダウンで物事が決まる時代じゃない、人とシェアして横との繋がりで仕事をしていく時代」

「”個”が強くなる時代」

など、痺れるキーワードを散々浴びた私は、もう公務員に戻って仕事をする気が消えかけていた。

正確に言うと、ずっと蓋をして抑えていた気持ちに、向き合わざるを得なくなった。

「ここで聞いた話を”すごい”と思って終わるのではなくて実践しないと意味がない、そうしなければ10年後も30年後も何も変わらない」と思うきっかけになった。

遠く離れた南国の地で、トップレベルの経営者の方々のお話を聞けたのは、非常に幸運だったと思っている。

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ただの冴えない男の子だと思っていた先輩(年齢的は後輩)が、ものすごい優秀なプログラマーだった。

4年生。私はすでに29歳になっていた。皆、就活だ何だので、ワイワイ盛り上がる。これから未来が決まっていく彼らが羨ましく、卒業しても何も変わらない日々が待っているであろう自分の人生は、何だかとてもつまらないものに思えた。

「卒業したら私は”新卒扱い”になるのかな」とか変な期待をした事もあるが、この歳で異業種の、しかも未経験での再就職は難しいだろうと思えた。私は本当は「デザイン」がずっとしたいのに、この5年のブランクと自分の年齢を言い訳に、自分の心の叫びを抑えて諦める術を身につけてしまっていた。

すごい経営者たちの話が頭の片隅にはあるものの、まだ行動に移すほどの勇気と覚悟が足りなかった。

そこで、一人の先輩と会う(年齢的には5つ下の後輩)。彼とは講義でたまに会うのだが、いつもmacを持っていて、隅っこの目立たない席に座り、授業を聞いていない風だ。「ちょっと暗くて変な人」というのが印象だ。

私は「ちょっと暗くて変な人」が好きなので、いつも一人ぼっちの彼とグループワークをしたりした。

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そんな時、彼が「来週から東京に行って来るので、次の講義の内容教えてくれたら嬉しいです」と言ってきた。

「旅行か就活かな」と思い、OKした。帰って来た時に詳細を聞くと「仕事で」というので、詳しく聞いたら、プログラマーだった。彼も学費を自分で稼いでいて、皆が知っている有名な会社のサービスのプログラミングを担当していたらしい。その年のアルバイト代は300万ほどになるという(当時の私の年収・・・!!!!)。

彼は、国際言語学科なのにも関わらず、プログラミングを駆使し、今では超有名な上場企業のプログラマとして活躍している。

彼の働き方に自由と可能性を感じずにはいられなかった。一種の嫉妬と憧れにも似た感情も抱いた。パソコン一つで時間と場所にとらわれない働き方のスタイル、まさに私の理想とするものだった。「IT」「リモート」、このキーワードが後の自分のキャリアの方向性を決定付けることになる。

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プログラミングをしたものの。

プログラミングに興味が湧いた私は、彼から定期的に学ぶ事になる。また、他の後輩プログラマー(超優秀)が教えてくれたり、知らない事は大体ネットに落ちているし、この世界は学びたい人にとってオープンで優しい世界だ。

ただ、私は元来数字と英語が苦手だ。私の周りのプログラマは、例外なく数字と英語が得意なので、それについては自分にとって致命的だと思った。ある日、その事を後輩に相談すると、「webデザイナー」はどうかと勧められた。

デザインが出来て、少しプログラミングも出来たら、人と差別化出来るかもしれないし、何より私はやっぱりデザインがしたいと気づいた。

そこで、私はまだ何も出来ないけど、とりあえず「Webデザイナー」という名前がかっこいいのと、比較的未経験でも採用してくれる企業が多かったので、その業界に進むことを考えた。

「公務員を辞めたい」と言い出せない。

その後輩の勧めと、Webデザイナーは比較的未経験でも採用してくれる企業が多かったので、卒業後は本格的にその業界に進むことにした。

ただ、やはり、どうしても「公務員を辞めたい」とは上司には言えなかった。社会人になって初めて自分で努力して手に入れた仕事を、簡単に手放せなかった。”ここにいたら取り敢えず安心”という気持ちと、”今変わらなけらば一生このまま”という二つの気持ちの狭間で葛藤し続けた。

それこそ、一生分悩んだと思う。

私の背中を押してくれた言葉。

いよいよ卒業間近、2月も後半に差し掛かっていた。来年は係長候補に抜擢したいという職場の期待もあり、中々辞表を切り出せない。刻一刻と私は決断を迫られていた。

「この仕事を続ければ、順調なキャリアは積める」「でも今辞めなければ、一生このビルの中で人生を終える」、この二つの答えが延々と頭に浮かんでは消える。理性と感情がうまく混ざらない。

その時、メンタル系のスタートアップに転職した元大手旅行会社の友達(後に私の最初の仕事に関わる相手)から、重要なメッセージをいただいた。

「条件、立場、お金、一旦全て何も考えないでみて。目を閉じて、今君が頭に真っ先に思い浮かぶ事は何?」

たった一点、心から「デザインがしたい」、それだけだった。

「それが本当に君がやりたいことだよ」

迷いが吹っ切れた瞬間だった。

公務員を辞める。

そこからは早かった。2月末には上司に辞める意向を伝え、1ヶ月で全ての引き継ぎをし、新しい人生を始めることとなった。

不安はあった。給与も低いだろう。待遇も悪いだろう。でも、その決断に後悔はなかった。

「明日死んでも良いっていう人生を送りたい」、答えはシンプルだ。どうせ死ぬなら好きな事をやって死にたい。言い換えると、好きなことをやって生きていたい。

誰かが作った答えや正解に、自分の人生を捧げる必要はない。

人によって幸せの定義はたくさんあって良い。

死ぬ時に1ミリの後悔もなく笑って生きよう、そう決めて私は、5年間お世話になった庁舎を後にした。

Webデザイナーになった理由。

大学生活の中で、すごい経営者たちからは「既存の働き方にとらわれない」という教えを学んだ。

プログラマーの後輩たちからは「時間と場所を選ばずに仕事をする」、そんな世界を教えてもらった。

私はどんな世界を見たいか?どんな風に生きたいか。

私は、好きな事で自由に生きていきたい。そんな当時の私のベストな答えが「Webデザイナーになる」。

それがこの仕事を選んだ理由だった。

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